中央スペインの世界遺産について〜世界遺産へ旅立つ前に

中央スペインの世界遺産〜世界遺産の旅行ガイド
IP分散Wディレクトリ
スペインの首都マドリード
 遠い昔に「太陽が沈まない王国」と称されたことで知られるスペイン王国。しかし21世紀の日本人から見ると、スペインというのはどうもピンと来ない国の1つではないでしょうか。国名自体は広く知られていますが、国旗のデザインが頭に浮かばない人も多いんじゃないかと思います。そのあたりを考えても、イギリス・フランスなどと比べてかなり馴染みの薄いスペインという国。しかし、スペインの世界遺産をめぐるにあたっては、や
目次
 
 遠い昔に「太陽が沈まない王国」と称されたことで知られるスペイン王国。しかし21世紀の日本人から見ると、スペインというのはどうもピンと来ない国の1つではないでしょうか。国名自体は広く知られていますが、国旗のデザインが頭に浮かばない人も多いんじゃないかと思います。そのあたりを考えても、イギリス・フランスなどと比べてかなり馴染みの薄いスペインという国。しかし、スペインの世界遺産をめぐるにあたっては、やはりある程度の知識が欲しいところです。そこで、トップページでは首都マドリードを含めた中央スペインの基礎知識として、地理・歴史に触れていきたいと思います。


◎中央スペインの地理

 当サイトにおいては、中央スペインの定義をマドリード(マドリッド)・カスティリャ=ラ=マンチャ・バレンシアの各自治州としています。それぞれの州がどのような特色を持っているか、まずは順番に見ていきましょう。


1.マドリード自治州

 州都はもちろんマドリードで、スペイン王国の首都になっています。公用語はカスティリャ語。世界的に人気のある観光地の1つです。
 ちなみにマドリードは、世界史上初めて民間人を標的にした航空爆撃を受けた都市としても知られています。これは戦間期(第1次世界大戦と第2次世界大戦の間にあたる時期のこと)に行われた、アサーニャ人民戦線内閣とフランシスコ=フランコ率いる反乱軍が戦ったスペイン内戦に際してのこと。この時、マドリードは3年間にわたって包囲され、爆撃を受けています。


2.カスティリャ=ラ=マンチャ自治州

 州都はトレドで、使用言語はカスティリャ語です。
 名前からは、北西部にあるカスティラ=イ=レオン州との繋がりを感じると思います。もちろん、これら2つの州はいずれもカスティリャ王国の支配地域だったことに由来するネーミングとなっているわけです。ちなみにカスティリャ地方には旧カスティリャ・新カスティリャという分け方があり、それぞれカスティリャ王国が古来から持っていた地域・後に領土を拡大した地域を意味しています。このカスティリャ=ラ=マンチャ州は新カスティリャ地方に属しており、旧カスティリャ地方とレオン地方(かつてレオン王国のあった地域)がカスティリャ=イ=レオン州となっているんですね。


3.バレンシア自治州

 州都はバレンシアで、公用語はバレンシア語とカスティリャ語の2つです。どちらかといえば沿岸部ではバレンシア語が強く、内陸部ではカスティリャ語が強いように感じられます。
 全体として農業が盛んな地域で有り、ブドウ・米・オレンジなどが栽培されています。バレンシアオレンジという言葉を聞いたことのある人も多いでしょう。


 以上、中央スペインの各州に関する基礎知識でした。スペインの地理に関する知識を頭に入れた上で、次ページからは1つ1つの世界遺産を見ていきましょう。


◎中央スペインにまつわるエピソード
 〜スペイン内戦とフランコ独裁政権

 首都であるマドリードの項で軽く触れたスペイン内戦について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。第1次世界大戦の後、いったいスペインでは何が起こったのでしょうか?
 当時のスペインは第二共和政を敷いており、アサーニャ首相が率いる左派政権――アサーニャ人民戦線内閣によって統治されていました。1931の選挙によって躍進した左派・共和派によって、戦うことなく国王を退位させる無血革命を成し遂げた政権であり、当初は貧民層からの絶大な支持と期待を帯びていた政権です。
 しなしながら、貧困層救済ばかりを全面に打ち出した結果、政治的対立を招いて国内の治安が悪化するなど政権はやや不安定な状態が続いていました。(とはいえ、時は1929年に始まった世界恐慌の時代である上、第1次大戦後の不況も長引いているという不安定きわまりない情勢ですから、あながち内閣の責任とばかりは言えないのも事実です)また、それに加えて政治的改革を目指し急速な政教分離を図ったために、敬虔なカトリック層から完全に見放されてしまいます。
 元々、人民戦線内閣(=共和国政府)の内部でも「議会制民主主義を維持できれば充分という穏健派」と「完全な社会主義革命を達成したいという急進派」で対立があり、一枚岩ではなかったので、決して強力な政権とはいえませんでした。勝算があると読んだエミリオ=モラ=ビダルが植民地モロッコで反乱軍を旗揚げし、ついに打倒アサーニャ内閣の狼煙が上がってしまったのです。
 反乱軍側はエミリオ=モラと同じくモロッコにいた軍人――フランシスコ=フランコを中心に結束し、スペイン本土へ上陸。一枚岩でなかった人民戦線からは多くの人材が反乱軍へと流れ、結局のところ軍部の主力はほとんどフランコ側へ合流したのでした。(人数自体は半々でしたが、主力・精鋭を失った人民戦線は完全に劣勢でした)
 国際的な動きも反乱軍をより勢いづかせるものでした。ファシズム的な独裁政権樹立を目指すフランコに対して好意的なナチス=ドイツとイタリアに加えて、サラザール独裁政権下のポルトガルもフランコの反乱軍を支援したのです。一方の共和国政府に対しては、一応の支持を表明していたイギリス・フランスが自国への波及を懸念して中立を決め込んでしまいました。(英仏がこの時点でアサーニャの共和国軍を軍事支援すれば、その時点で独伊との戦争が始まってしまいます。この時点での英仏は宥和政策を取っており、独伊の暴走を半ば黙認してまでも、世界大戦になるのを避けようと動いていました)結局、距離的に大した支援の出来ないソビエト連邦が素早く支持に動いただけで、アサーニャ人民戦線内閣は実質的に孤立したまま内戦への対応を迫られたのです。
 フランコ将軍らは首都マドリードを陥落させるべく包囲・空爆しますが、共和国軍も簡単には陥落しませんでした。反ファシズムを掲げた義勇兵(国際旅団)が、国籍を超えてマドリード死守のために集結したのです。ここには、アメリカの文豪として知られるアーネスト=ヘミングウェイ・後のフランス文部大臣マルローなども参加していました。(ヘミングウェイはスペイン内戦の経験を書いた小説『誰がために鐘は鳴る』を後に発表しています)ちょうどソ連からの支援武器が到着したこともあり、戦線は膠着。このマドリード包囲戦は3年もの長期に及んだのでした。
 しかし、マドリード以外の地方都市は次々と陥落してフランコ側の手に落ちていきました。ビルバオやサンタンデールなどの主要都市が落とされていく中、アサーニャ側が補給の要としていた都市ゲルニカではナチス=ドイツ軍の空爆によって多数の民間人が犠牲になるという事件が起こっています。この出来事に抗議する意味で描かれたのが、ピカソの有名な絵画『ゲルニカ』です。(ただし、民間人を巻き添えにした空爆は、内戦の中で両軍ともに幾度となく行っています。これに関しては一概にフランコ側だけが非人道的だったわけではありません)
 結局、最後まで一枚岩になれなかった共和国軍は次第に内部から瓦解していきました。実際のところ、人民戦線内部の対立が尾を引いて、自軍の中で「対立する政治思想を持った派閥」がフランコ軍に負けて全滅すると大喜びするような状態だったらしく、軍としての統制さえ取れていなかったようです。そうした混乱状態の中で、コミンテルンの息がかかった共産主義者たちが共和国軍を牛耳るようになっていきます。最終的に瓦解寸前だった共和国軍は、スペイン共産党の主導で動くようになり、共産党員でない味方兵士を平気で背後から撃ち殺すような状態になっていきました。
 こうして戦況は反乱軍の勝勢へと傾き続けました。バルセロナが陥落すると、とうとうイギリス・フランスがフランコ政権を承認。こうして、アサーニャ人民戦線内閣は辞任するより他になくなりました。フランコは最後にマドリードを陥落させれば全土制圧というところまで来ましたが、もはや自ら積極的に手を下す必要さえありませんでした。マドリードでは「徹底抗戦を叫ぶ共産党系の兵士」と「戦意を失って降伏を考えている無政府主義系・共和主義系の兵士」が衝突し、共和国軍同士で銃撃戦を始めている始末だったからです。(この時、国際旅団の義勇兵たちのほとんどはイギリスの仲介によって既にスペインを出国していました)
 こうして、スペインにはフランコ将軍による独裁政権が樹立したのでした。この時点での国号はスペイン共和国からスペイン国へと変わっています。
 やがて第2次世界大戦が始まるとナチス=ドイツとイタリアから再三の参戦要請を受けますが、フランコはこれを拒否します。元よりフランコの狙いはスペイン1国の支配であり、それが成し遂げられた状況でわざわざ国力を消耗する気はありませんでした。その後も、フランコは枢軸国が有利なうちはドイツとの蜜月関係を保ち、連合国が形勢を逆転すると完全な中立を決め込むという日和見外交を続け、各国から不快には思われつつも実害を受けずに巧みに切り抜けるという政治手腕を発揮したのです。
 結局、フランコが没する1975年までスペイン国は独裁政権を継続しました。1980年代以降に生まれた方などは、わりと名の知れた西ヨーロッパの国がほんの30年ちょっと前まで独裁国家だったというのを意外に感じる方も多いのではないでしょうか。
 フランコは死に際して、自身が帝王学を教え込んだフアン=カルロスを後継者に指名。このフアン=カルロスは第二共和政が成立する時に退位させられたスペイン王アルフォンソ13世の孫であり、国王の権威を利用して王政復古によって独裁政権を継続すれば自分の死後も政権が保たれると考えたようです。こうして、スペイン国は王政復古によってスペイン王国となりました。しかし、国王に即位したフアン=カルロス1世は独裁政治を継承しませんでした。すぐさま民主化を推し進め、議会制民主主義による立憲君主国家へとスペインを再編したのです。こうして平和裏に独裁政権が終了し、1978年憲法の成立をもってスペイン王国は現在と同様の民主国家として再スタートを切ったのです。


 以上、スペイン中央部にまつわる地理・歴史のエピソードでした。これらを頭に留めた上で個々の世界遺産について見ていきましょう。



※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
 wikipediaはコピーレフトという考え方を標榜しており、引用・再利用が自由です。
お問い合わせ申込